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先人が残した血の叫び(大震災:末の世に 朽ちぬ形見を 残す石ふみ)

6月14日午前0時ごろに大きな地震が発生した。

大阪の町の人々は驚き、川のほとりにたたずみ、余震を恐れながら4、5日の間、不安な夜を明かした。この地震で三重や奈良では死者が数多く出た。

(でもこれはのちの大地震のほんの余興の様なものだった。)

それからおよそ5ヶ月後の11月4日午前8時ごろ、またしても大地震が発生した(大地震1)

地震が発生しても水の上なら安心だと小舟に乗って避難している人もいたところへ、翌5日午後4時ごろ、再び大地震(大地震2)が起こり、家々は崩れ落ち、火災が発生し、その恐ろしい様子がおさまった日暮れごろ、雷のような音とともに一斉に津波が押し寄せてきた。

安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が立ち、東堀まで約一・四メートルの深さの泥水が流れ込んだ。
両川筋に停泊していた多くの大小の船のイカリやトモ綱は切れ、川の流れは逆流し、安治川橋、亀井橋、高橋、水分橋、黒金橋、日吉橋、汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋などの橋は全て崩れ落ちてしまった。

大黒橋から西の道頓堀川、松ヶ鼻までの木津川の、南北を貫く川筋は、一面あっという間に壊れた船の山ができ、川岸に作った小屋は流れてきた船によって壊され、その音や助けを求める人々の声が付近一帯に広がり、救助することもできず、多数の人々が犠牲となった。

・・・

今より148年前、10月4日の大地震(大地震3)の時も、小舟に乗って避難したため津波で水死した人も多かったと聞いている。

長い年月が過ぎ、これを伝え聞く人はほとんどいなかったため、今また同じように多くの人々が犠牲となってしまった。今後もこのようなことが起こり得るので、地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は絶対してはいけない。

また、建物は壊れ、火事になることもある。お金や大事な書類などは大切に保管し、なによりも「火の用心」が肝心である。川につないでいる船は、流れの穏やかなところを選んでつなぎ替え、早めに陸の高いところに運び、津波に備えるべきである。

津波というのは沖から波が来るというだけではなく、海辺近くの海底などから吹き上がってくることもあり、海辺の田畑にも泥水が吹き上がることもある。今回の地震で大和の古市では、池の水があふれ出し、家を数多く押し流したのも、これに似た現象なので、海辺や大きな川や池のそばに住む人は用心が必要である。

津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、十分心得ておきなさい。

犠牲になられた方々のご冥福を祈り、つたない文章であるがここに記録しておくので、心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい。

安政二年(1855年)7月建立

****************

これは大阪市浪速区の大正橋東詰にひっそりと建っている「安政大津波」の碑の文章です(補足・省略・改変した部分あり)。

安政大津波の碑

大阪にも津波の被害があったことを示す貴重な碑文ということで前から興味があったんだけど、大正区のIKEAに行った際に立ち寄ってきました。すごく地味な碑なんだけど、やはり東日本大震災の影響か、写真を撮ったりする人が何人かいたよ。

文中の大地震1がいわゆる1854年の「安政東海地震」のことで、大地震2がその約32時間後に起きた「安政南海地震」。死者は合計で5000人以上、余震は9年間も続いたそうです。この碑文の著者が回想している148年前の大地震3というのが1707年の宝永地震のようですね。どちらも文献で確認できる東海・南海・東南海連動型地震です。

まずは予告編の様な地震があり、数ヵ月後に東海地震。その翌日に南海地震が連動し、数時間で大阪まで大津波が到達。その様子がすごくリアルに伝わってくる。

大黒橋の西側まで船の瓦礫がきたということは、なんばHatchのあたりまで船の瓦礫で埋まったってことかな。YouTubeで津波動画を見た人ならわかると思うけど、津波の水って真っ黒なんだよね。昔の人も「泥水」って表現しているから、昔の津波もやっぱり黒かったんだろうね。田や池から水が噴き出すとあるのは液状化現象のことなんだろうか。

最後のこの文章は特に感慨深い。

心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい。

よく見ると、この碑文には今も墨がしっかり入っている。誰かが毎年墨を入れているんだろう。また、碑文の別の部分にはこんな文章も刻んである。

先達の 人は知しきぞ 末の世に 朽ちぬ形見を 残す石ふみ

これを読むと、何度も津波の被害にあってきた先人たちの悔しい思いが心に迫ってくる。昔はYouTubeなんてなかったから津波の恐ろしさをこういう形でしか残すことができなかった。まさしく子孫に残した石の手紙。今度津波が来るとき、僕たちは先人たちの教えを活かすことができるだろうか。

ていうか活かさないとだめだよね。

(参考)
大阪市 「安政大津波」の碑
碑文の口語訳全文があります。なんとこの市のページが記載されたのが2009年3月11日。偶然でもすごい。

大阪市 橋の紹介
碑文中の橋の位置を知るのにいいです。

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テーマ : 大阪 - ジャンル : 地域情報

独自支援を競う阪神地区の自治体たち

阪神地区の自治体は阪神・淡路大震災を経験していることもあって、今回の大震災への独自支援にやっきになっている。中にはなるほどなと思える支援もあれば、残念ながら独りよがりな(もっと言うと市長の自己顕示欲を充たすためだけの)支援になってしまっているものもあったようだ。

残念な支援の代表的なものは、震災直後(1週間以内)に単なる事務職員1・2名を被災地に派遣するケースだ。この間、震災直後に現地入りした職員とたまたま話しをする機会があったので、感想を聞いてみた。

その人によると、
・出発直前まで被災地のどこの市へ派遣するのかも未確定のままの出発。
・現地に着いても県庁の職員には避難所への立ち入りは断られた。今の状況では素人が入ってもできることはないとのこと。
・救援物資の集積基地への物資運搬は許されたが、県庁には既に物資が山ほど集められており、車一台程度の細かい救援物資は、(仕分けのことも考慮すると)あまり効果はなさそうだった。
・応援メッセージも持参したが、そこへ置いておいて下さいの一言だった。
とのこと。彼からすれば、決死の覚悟で現地入りしたものの、とりあえず行ってみただけの派遣になってしまったと悔やんでいた。

もちろん少量ではあっても物資を届けることが完全な無駄だとは思わないけど、こういう散発的な派遣を関西の自治体がてんでバラバラに行っても非効率極まりない。現地の受け入れ態勢も整っていないのに、市長のごり押しで無理やり派遣するとこういうことになってしまう。今度また別の大震災が発生したときは、近隣自治体と連携して斥候部隊は1回ですませる、救援物資は1箇所に集約して、そこから随時一括運搬をするなどの工夫をすべきだ。変な支援競争をしても道路が混むだけだよ。

とまあ、残念な支援もあった一方で、なるほどなあと思う支援をしているところもあるので、ちょっとだけ紹介します。

西宮市
ここは、阪神淡路大震災のときに独自に作成した被災者支援状況の総合管理ツールをオープンソース化して、全国の自治体に提供するとのこと。どこまで使えるかはわからないけど、被災地支援のノウハウががっつり詰まっていることは間違いないし、大震災を経験した阪神地区ならではの支援方法だと思う。
「被災者支援システム」のご利用について

宝塚市
宝塚市では、阪神・淡路大震災の発生当時の、市民からの電話対応マニュアルを公開している。といっても目次だけのようだが、他の自治体が希望すれば中身を送付してくれる。こういうマニュアルも、ノウハウの塊みたいなもんだろうから、自治体職員なら目次くらいはさらっと見ておくといい。
災害対策本部電話応対資料の提供について

神戸市
ここは、1・2名なんて甘っちょろい人数ではなくて48人もの事務職員を、避難所運営の支援のために派遣したそうです。ちゃんと現地の自治体と調整のうえ、ここまで組織的な派遣であれば、役に立つんじゃないかと思う。
東北地方太平洋沖地震被害への応援職員の派遣

また、神戸市は神戸市避難者登録制度というものを設けていて、被災者に決め細やかな情報提供をしようとしている。こういう制度を設けているのは神戸だけじゃないかな。
東北地方太平洋沖地震等による神戸市内への避難者の把握を進めています

とまあ、いろいろな自治体が支援を行っているんだけど、まだまだ復興支援は始まったばかり。阪神・淡路大震災のときは、仮設住宅がなくなったのは5年後の2000年だった。被害規模を考えると、今回の震災では5年どころか10年くらいはかかるかもしれない。とにかく復興支援は長いサポートが必要になるわけで、まだまだ総括するような時期じゃない。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~ - ジャンル : その他

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